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音楽室ピックヨウル

雑司が谷のバイオリン教室

音楽をする“わたし”

ピックヨウルだより

hikkomiya.hatenadiary.com

 
↑ここで言う「私」って、じゃあどういうものなのか。

 

日常生活において、承認欲求や自己顕示欲など、自己愛とどう付き合いながら生きていこうか、というのは大人になりきれない大人には悩みどころです。音楽をする上でも「私」の置きどころは難しいものです。「自分を大切にすること」と「自己愛の塊になること」、このふたつをよりいっそう混同しやすくなります。

 

自分を大切にしているとき、ものごとの判断の軸は自分にあります。たいして、自己愛の塊のときは軸が他人にあります。「こう“見られる”ことで傷つきたくない」「こう“思われる”ことでいい気持ちになりたい」という思考回路。いつなんどきでも自己愛の塊の人には、音楽はできません。軸が他人にあることで、耳が塞がれます。

 

成長段階にある小さな子供にとって、メトロノームに合わせて演奏をするのはなかなか難しいことです。自他の境界は6歳頃にでき始めます。判断の軸の位置がまだ定まっていない状態なので、自分の出す音とメトロノームの音の同期(コミュニケーション)がままならないのです。

 

大人になって自己愛の塊でいると(※定型発達、健常者の場合の話をします)、軸は他人にあるのに自我は強いため、自他の境界が曖昧な6歳前後の子と同じような現象が起きます。メトロノームや、合奏での他のパートと合わせられません。その人の内面に原因があるなら解決のしようがない…わけではありません。
演奏に必死になっていると、誰でも自己愛の塊になる危険はあります。プロアマ問わず、誰にとっても他人事ではありません。合わない、周りを聞けていないと気づいたなら、自分に軸を置き「同期をする対象(メトロノームや他パート)にも私に責任がある」という意識を持つと、すぐ合わせられます。

共に音楽をするための音を他人事にしていると、どの音も聞こえなくなります。すべてが自分に関わる重要な音であり、責任があるのだと考えることで、耳が開かれます。

 

耳の次は目です。

上がるステージによっては「人にどう見られるか」を考えねばなりません。音楽のパフォーマンスにはヴィジュアルも含まれます。ただしヴィジュアルについて考えるのは、やるべきことをやってからです。

 

自己愛の塊にとっての“見られる”ものはヴィジュアルだけではなく、というか、ヴィジュアルよりむしろ、立場です。ナメられたくない!てやつです。
私自身もナメられたくない、こんちくしょう精神で学生時代、のし上がりました。このネガティブな力は、ときに猛烈なエンジンとなります。「周りからの評価」という燃料はどんどん自己を燃やします。卒業試験の最終選考が終わった頃には、燃え尽きて真っ白な灰になっていました。食事も睡眠もほとんどとらずに練習していたため身体はボロボロ。人生で初めて「なんで音楽やってるんだっけ」という疑問が浮かびました。

 

軸が他人にあり、真っ白な灰になるまで音楽の存在を見ることが出来ていなかったのです。
必要なのは、自分の演奏や音楽を「誰々より上手いか下手か」で判断することではなく、自分の音楽を心地よいと思えるか。YESだったらそのまま楽しめばいいし、NOであれば心地よいと思えるときまで努力すればいいだけです。

 

プロでない場合、誰かが下手くそでも誰も本当には困りません。アマオケ学生オケ団員の方で、「下手だから周りに迷惑がかかる」と気にされている方を多くお見かけします。本当に迷惑そうにしている仲間がいたなら、その人はあなたの演奏によって「自分はまだまし」と安心している、お互い写し鏡の存在です。その仲間や鏡に写る自分よりも、見るべきものは音楽です。

アマオケの人間関係は正直よく知りません。大人同士、色々あることとは思います。それでも、部費や参加費を払いながら人の目を気にして優越感劣等感ゲームをするくらいなら、オケには入らないほうがいいです。人目を気にするより、どうすれば弾けるようになるかを具体的に考えて行動したほうが、音楽のため人生のためになります。

 

「自分はまだまし」と優越感に浸っている人の先に待っているのは、燃え尽きた真っ白な灰です。この灰から人間に蘇生するまで、10年はかかります(私はまだまだ途中です)。灰にならず、妙なゲームに陥らず、耳を開き目を開き、音楽と向き合い、なんとか上手いこと生きていきたいものです。