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音楽室ピックヨウル

雑司が谷のバイオリン教室

「私が音楽」?

ピックヨウルだより

先日、このようなツイートをしました。

 

 

このことについて、補足しつつ簡単にまとめました。(※現在の個人的考えです)

 

●西洋クラシック音楽
世界観の設定:“到達点がある”と設定された・創造主が存在する世界

目指す身体性:人間の機能を拡張したところにある技術を獲得した身体

人間味・個性の主な出しどころ:楽曲の解釈

☆「私」が創造主として身体を支配・コントロール
  前提条件:「私(自我)」の獲得

到達点:「私」によるコントロールのもと訓練を徹底的に行い、音楽技術を身体化し、「私」が音楽的身体になる。

★「私」をコントロールし、身体を機械化させ、(=音楽的身体をもつ)
    その頂点で音楽とひとつになる(=音楽的身体である)

 

 

●インド古典音楽
世界観の設定:梵我一如*1を志向・輪廻する世界

目指す身体性:自然・宇宙(の一部)

人間味・個性の主な出しどころ:師匠から受け継いだ音楽の引き出し・手癖(←検証中)

☆「私」の思考や欲望よりもまず身体が音楽的(=自然)であることが必要
  前提条件:音楽的身体の獲得

到達点:身体から発せられる音楽をアウトプットするために、「私」を利用して音楽技術をマスター

★「私」はなく、すでに音楽と一体である状態から、(=音楽的身体である)
    理論や技術を引き寄せる(=音楽的身体をもつ)

 

 

西洋音楽で「私が音楽」と言えるまで、インド音楽で「私が演奏している」と言えるまで。どちらも音楽と「私」の境界がギリギリ見えるか見えないかの微妙なラインをキープすることが、「音楽をする」ことなのだろうと思います。

*1:我(アートマン)を悟ることで宇宙の原理(ブラフマン・梵)を感得することです。我(アートマン)を悟るには、瞑想によって「我を否定すること」が必要とされます。

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